DroR Laboratory RESEARCH & FIELD NOTES

DroR Laboratory記事

組織と経営

人的資本経営を、開示で終わらせないために

人的資本経営は、開示や指標づくりがゴールではありません。情報を出すこと自体は出発点で、人の力が実際に発揮されるかは、役割・学習環境・マネジメント・関係性という組織の構造で決まります。本稿では、開示の先にある「実装」をどう設計するかを整理します。

開示は出発点であって、ゴールではない

人的資本の開示や指標整備は重要な一歩です。しかし、情報を出すこと自体が人の力を発揮させるわけではありません。開示で見えるようになった課題を、組織の運用にどう接続するかが本題です。

指標づくりが目的化すると、現場の実感と乖離した数値合わせに陥りがちです。

投資家や求職者が最終的に見るのは、数値の背後にある実態です。開示が進むほど、見栄えのよい数値と現場の実態とのギャップは、かえって露わになります。だからこそ、開示と実装を切り離さず、ひとつの設計として扱う必要があります。

「人的資本」という考え方は、どこから来たのか

「人的資本」は新しい言葉ではありません。経済学者ゲイリー・ベッカーは、1964年の著作『Human Capital』で、教育や訓練への支出を、設備投資と同じく将来の生産性を高める「投資」として捉える理論を体系化しました。人を費用ではなく資本とみる見方の出発点です。

日本でこれが経営の課題として広がったのは近年です。経済産業省の「人材版伊藤レポート」(2020年、2.0は2022年)は、人的資本を企業価値に結びつける経営を提起しました。2023年3月期からは有価証券報告書での人的資本の開示も始まり、国際的にはISO 30414が情報開示のガイドラインを示しています。

ただし、これらはいずれも「見えるようにする」枠組みです。見えるようになったものを実際に活かす段階は、開示とは別の設計を必要とします。

言いかえれば、これらの制度は「人を資本として扱う」という理念を、社会の共通ルールにした段階です。残された問いは、その資本を実際に増やし、活かす組織をどう作るか——理念から実装へ、という一歩です。

力が発揮されるかは、構造で決まる

人が力を発揮できるかどうかは、本人の能力だけでなく、役割と権限の設計、学習が起きる機会、マネジメントの関わり方、安心して挑戦できる関係性といった構造に大きく左右されます。

同じ人でも、構造が変われば発揮される力は変わります。人的資本を「個人の属性」ではなく「構造との相互作用」として捉えることが出発点です。

たとえば同じ営業担当者でも、裁量が与えられ、失敗が学習として扱われるマネジメントの下では成果を伸ばし、逐一承認を求められ、失敗が叱責される構造の下では萎縮します。発揮される力の差は、本人の能力ではなく、置かれた構造の差であることが少なくありません。

ベッカーの理論が「投資」を論じたのに対し、現場で問われるのは「投資が成果に変わる条件」です。研修に投資しても、学びが活きる役割やマネジメントがなければ、その投資は数値の上には載っても、実行力には変わりません。

例:研修に投資しても、実行力が上がらないとき

ある企業が人材投資額を大きく増やし、研修の受講時間も指標として開示したとします。数値は改善し、開示上は「人に投資する企業」に見えます。しかし、現場の実行力は変わりませんでした。

原因は、学んだことを使う場がなかったことにあります。新しいスキルを試せる役割が与えられず、挑戦しても評価されず、学びを共有する場もない。投資は「受講時間」という数値には変わりましたが、「発揮される力」には変わらなかったのです。

人的資本への投資が成果に変わるかどうかは、投資額ではなく、投資が活きる構造があるかで決まります。開示すべきは金額だけでなく、その先の設計です。

弱みの是正より、強みが出る条件を設計する

評価や配置で弱みを是正するだけでなく、強みが自然に発揮される条件を設計する方が、組織の実行力につながります。

  • 役割:強みが活きるように責任と権限を再設計する
  • 学習:日常の中に学びが起きる機会を埋め込む
  • マネジメント:挑戦を支える関わり方へ更新する
  • 関係性:安心して発言・挑戦できる場を整える

指標は、構造の結果として動かす

指標を先に追うと、数値を満たすための行動が増え、本来の目的を見失いがちです。構造を変え、その結果として指標が動く——という順序にすることで、指標は組織の状態を映す信頼できる情報になります。

ISO 30414が示すような開示項目は、組織の状態を外部に説明するための共通言語です。しかし指標は地図であって、土地そのものではありません。地図を描き替えても土地は変わらないように、指標を直接いじっても、人の力が発揮される構造は変わりません。

指標を「結果」として扱うと、もう一つ利点があります。構造に手を入れた箇所と、動いた指標を対応づけられるため、何が効いたのかが分かるのです。これは次の打ち手の精度を上げ、開示の説明力も高めます。

DroRは、人的資本のテーマを、役割・学習・マネジメント・関係性の設計へ接続し、開示の先の実装を伴走します。

開示項目を、現場の設計に翻訳する

有価証券報告書では、人材育成方針や社内環境整備方針に加え、女性管理職比率・男性の育児休業取得率・男女間賃金差異といった指標の開示が求められます。これらは、組織の姿勢と現状を外部に伝える共通言語です。

実装の観点では、これらを「開示するための数値」で終わらせず、「どの構造を変えればこの数値が自然に動くか」へ翻訳します。たとえば女性管理職比率は、登用基準・育成機会・評価のされ方・働き方の柔軟性といった構造の結果です。数値を直接追うのではなく、その数値を生んでいる構造に働きかける——これが、開示の先にある設計です。

現場の実感と、数値が食い違うとき

指標が整っても、現場の手応えと数値がずれることがあります。エンゲージメントのスコアは高いのに離職が止まらない、研修の受講率は高いのに行動が変わらない——こうした食い違いは、指標が構造を映していないサインです。

このとき必要なのは、指標の取り方を精緻にすることよりも、数値の裏で実際に何が起きているかを観察することです。スコアと実態のずれ自体が、どの構造に手を入れるべきかを教えてくれます。

現場では、どこから始めるのか

実装は、大きな制度改革から始める必要はありません。まず、人の力が発揮されていない具体的な場面——意思決定から外れている、学習の機会がない、強みと役割がずれている——を観察するところから始めます。

そのうえで、役割の微調整、学習が起きる会議や対話の設計、マネジメントの関わり方の更新など、影響の大きい点から順に整えます。指標は、その変化を確認する道具として後から接続します。

この順序には利点があります。小さくても構造が動けば、現場の実感が先に変わり、数値はそれを追って動きます。数値から入る取り組みが「やらされ」になりやすいのに対し、構造から入る取り組みは、現場の納得を伴いながら進みます。開示は、その変化を外部に説明する最後の工程として位置づけられます。

よくある質問

開示義務に対応すれば、人的資本経営はできていると言えますか。
開示はスタート地点です。義務項目を満たすことと、人の力が実際に発揮されることは別の問題です。開示で見えた課題を、役割・学習・マネジメント・関係性の設計に接続して初めて、人的資本は企業価値につながります。
人的資本の指標は不要ですか。
必要です。ただし指標は、構造を変えた結果を見るためのものです。指標づくり自体が目的化すると形骸化しやすいため、構造の設計と一体で扱います。
研修制度を整えれば実装できますか。
研修は要素の一つです。役割・マネジメント・関係性など、学びが活きる構造が伴わないと、定着しにくくなります。
COSとどう関係しますか。
人の力の発揮も、組織の相互作用の構造に左右されます。COSは、その構造に介入する視点を提供する理論的枠組み(Conceptual Analysis)であり、実証済みの手法ではありません。

参考文献

本稿の見方は、次の研究・実務知に多くを負っています。

  1. Becker, G. S. (1964)『Human Capital: A Theoretical and Empirical Analysis, with Special Reference to Education』University of Chicago Press. 人への教育・訓練を、将来の生産性を高める「投資」として捉える人的資本理論の出発点。
  2. 経済産業省「人材版伊藤レポート」(2020)/「人材版伊藤レポート2.0」(2022) 人的資本を企業価値に結びつける経営の指針(3つの視点・5つの共通要素)。
  3. ISO 30414:2018「Human resource management — Guidelines for internal and external human capital reporting」 人的資本に関する内部・外部報告の国際ガイドライン。

関連して読む